黒田官兵衛の生涯

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公開日 2015年11月10日 14時08分

官兵衛の生涯

 黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか)は、激動の戦国時代にあって、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三傑に使えた名参謀であることから、「希代の軍師」と言われています。
 また、中津城をはじめ、数多くの築城に携わったことから「築城の名手」としても知られていますが、日本三大水城のひとつ中津城が官兵衛の手によって築かれた後、ほどなくして江戸幕府が家康の手によってひらかれ、激動の戦国の世は終わりを告げます。時は流れ、明治時代から現代へと急速に近代化が進み今に至ります。  

中津城下絵図
官兵衛時代の中津城下(現代と同じ町名が数多くみられる)

 官兵衛時代の資料(古地図)を見てみると、町割り(道路、町名など)が現在とほとんど変わらないことに驚きます。
 現在の中津市の礎を作ったのは間違いなく官兵衛と言えるでしょう。  

 
黒田官兵衛孝高(如水)の歴史年表
1546年(天文15年) 播磨国姫路(兵庫県姫路市)に、小寺氏の家老黒田職隆(もとたか)の嫡男として生まれる。幼名「万吉」
1562年(永禄5年) 父職隆に従い初陣を飾る
元服して通称を官兵衛、諱を孝高と名乗る
1567年(永禄10年) 播磨国志方城主櫛橋伊定の娘、光姫(てるひめ)と結婚
家督を継ぎ、姫路城代となる
1568年(永禄11年) 嫡男松壽丸(のちの黒田長政)が生まれる
1575年(天正3年) 織田信長に謁見し、羽柴(豊臣)秀吉の配下に入る
1577年(天正5年) 中国地方征伐のため先導を務め、姫路城を秀吉に差し出す
1578年(天正6年) 信長に反旗を翻した荒木村重を説得するため、摂津国有岡城(兵庫県伊丹市)に向かうも拘束され土牢に幽閉される
官兵衛が寝返ったとの流言に怒った信長が官兵衛嫡男の松壽丸(黒田長政)の殺害を命じるが、竹中重治(竹中半兵衛)の機転により匿われ難を逃れる(官兵衛は翌年救出)
1581年(天正9年) 毛利軍との戦いにおいて因幡国鳥取城(鳥取県鳥取市)攻略のため、俗に言う「鳥取の渇殺し(かつえごろし)」と呼ばれる兵糧攻めを行う
1582年(天正10年) 備中国高松城(岡山県岡山市)攻略のため、水攻めを行う
遠征の最中、明智光秀の謀反により、京・本能寺にて信長憤死(本能寺の変)
官兵衛の進言による「中国大返し」を経て、秀吉軍は「山崎の戦い」で光秀軍を討つ
1583年(天正11年) 織田家後継者を決める「清州会議」で秀吉と対立した柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで激突(秀吉軍勝利)
大坂城築城に際し、普請奉行となる
キリスト教の洗礼を受け、ドン・シメオンという洗礼名を授かる
1585年(天正13年) 四国攻めに軍監として参加する
父職隆が姫路にて死去
1586年(天正14年) 九州攻めに軍監として参加する
毛利輝元らとともに豊前国小倉城を攻め落城させる
1587年(天正15年) 九州平定後、秀吉が九州国分けを行い、官兵衛に豊前国6郡(京都郡、仲津郡、築上郡、上毛郡、下毛郡、宇佐郡)12万石が与えられる
豊前国の有力国人である城井谷城の宇都宮鎮房、長岩城の野仲鎮兼などを中心に次々と一揆を起こされるも、全て掃討され、或いは降伏するなどして鎮圧された
1588年(天正16年) 中津城を築城開始
宇都宮鎮房は中津城内の酒席にて謀殺され、城外での待機を命じられた侍従の者200名は待機場所である合元寺(ごうがんじ)で討たれた(赤壁寺の由来)
1589年(天正17年) 家督を長政に譲り、中津城を居城とする
1590年(天正18年) 20万を超える大軍で小田原城の北条氏政・氏直を攻め、官兵衛は交渉役として小田原城に丸腰で乗り込み、開城を説得し、無血開城に成功
1591年(天正19年) 肥前名護屋城の縄張りを命じられる
1592年(文禄元年) 宇喜多秀家の軍監として朝鮮へ渡る(文禄の役)
1593年(文禄2年) 現地(朝鮮)で石田三成などとの間に確執が生じ帰国するが、秀吉の怒りを買う。剃髪して「如水軒円清」と号し出家する
1597年(慶長2年) 小早川隆景の軍監として朝鮮へ渡る(慶長の役)
1598年(慶長3年) 秀吉死去
1599年(慶長4年) 中津城下にイエズス会のレジデンシャ(駐在所)を建設
長政、加藤清正、福島正則らが三成を襲撃するも、徳川家康の仲裁で三成は難を逃れた
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いが起こり、長政は黒田軍を率いて東軍として参戦
同時に九州内の西軍を攻撃すべく如水が中津城で挙兵
石垣原の戦い(別府市)において、大友軍を撃破
九州最後の敵対勢力である島津討伐へ進軍していたときに家康と島津義久の和議成立による停戦命令を受け、軍は解散
長政の筑前52万石移封に伴い名島城へ移る
1601年(慶長6年) 長政が筑前国福崎を福岡と改める
福岡城の築城を開始
福岡城内の居館が完成するまでの間、太宰府天満宮内に草庵を建て隠棲
戦乱で荒廃していた太宰府天満宮の復興に尽力
1602年(慶長7年) 大宰府天満宮に社殿を寄進
長政に嫡男忠之(官兵衛の孫:後の福岡藩二代目藩主)が誕生
1603年(慶長8年) 徳川幕府が成立
福岡城二の丸に家を建て、正室光と侘び住まいをはじめる
1604年(慶長9年) 病を患い、療養のために京都伏見屋敷に移り住む
3月20日伏見屋敷にて病死(享年59才)
京都大徳寺に葬られ博多崇福寺に分骨される
また、博多の宣教師により追悼ミサも開かれた
 
黒田官兵衛ポスター
中津市「軍師官兵衛」推進事業ポスター画、キャッチコピー
(キャッチコピーの書は中津北高等学校書道部提供)

 最後に中津で挙兵した時、官兵衛はどんな夢を見たのでしょうか?

 

地図

城下町中津

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