HOME > 中津市の多く偉人たち


幕末から明治という歴史的転換期に
先見性と行動力で時代を切り拓き日本を先導した人々。
こんなにも大勢の偉人たちを輩出した街はそう多くはないでしょう。
中津という街の魅力を改めて感じました。
慶應義塾 福澤諭吉 適塾
中津藩 医学校 解体新書
村上医家 村上医家史料館 その他
■慶應義塾
福澤諭吉
ふくざわゆきち
1835-1901
江戸末期から明治期の啓蒙思想家・教育者。
初め蘭学、後に英学を学ぶ。幕府使節随行として3度欧米に渡る。慶應義塾を創設し、在野にあって、教育と著者を中心に啓蒙活動を行った。著書「学問のすすめ」「文明論之概略」など。
浜野定四郎
はまのさだしろう
1845-1909
明治期の教育者、慶應義塾塾長。
福澤諭吉が中津の子弟6名を江戸の自塾に入学させたうちの一人。のちに慶應義塾の初代塾長になる。中津市学校では小幡篤次郎のあとの学校長を勤めた。終生慶應義塾発展に尽力した。
中上川彦次郎
なかみがわひこじろう
1854-1901
明治期の実業家。母は福澤諭吉の姉。
慶應義塾で洋学を学び、中津市学校の英語教師をした後、イギリスに留学。帰国後、時事新報主筆、その後、山陽鉄道を創設し、のち三井に入り近代化に努力した。
朝吹英二
あさぶきえいじ
1849-1918
白石照山塾学び、慶應義塾を経たのち実業界に身を投じて活躍。
鐘紡の重役になる。中上川、和田とともに福澤門下の3大実業家。
小幡英之助
おばたえいのすけ
1850-1909
明治時代の歯科医、近代歯科の先駆者で歯科医師免許第1号。
慶應義塾に入り洋学を学び、のち横浜で歯科を学ぶ。第1回の開業医免許試験に合格し新制度における国内初の歯科医師となった。
和田豊治
わだとよじ
1861-1924
明治・大正期の実業家、貴族院議員。
村上田長の書生となり、中津市学校に通学した。慶應義塾に学び、アメリカの甲斐商店に勤務。帰国後、富士紡績などで活躍し、のち社長になる。郷土の中津に和田奨学資金を設けた。
小幡篤次郎
おばたとくじろう
1842-1905
慶應義塾塾長、貴族院議員。
欧米留学し、憲法草案をはじめ諸新制度を手掛けた。終始福澤諭吉を補佐し、福澤に次いで慶應義塾社中の尊敬を集めた。
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■福沢諭吉
白石照山
しらいししょうざん
1815-1883
江戸末期から明治期の儒学者・教育者。
福沢諭吉の師。臼杵藩儒官・中津藩儒官。野本白巌に学び、その後江戸に遊学して昌平坂学問所などで学ぶ。帰藩し家塾を開き子弟教育に尽くした。
増田宋太郎
ますだそうたろう
1849-1877
明治期の民権家、西南の役中津隊隊長。
親戚の渡辺重石丸の道生館で国学を学ぶ。中津で創刊された田舎新聞の初代編集長として自由民権を説く。西南の役で中津隊を結成し、西郷軍に加わり、鹿児島の城山で戦死した。
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■適 塾
福澤諭吉
ふくざわゆきち
1835-1901
江戸末期から明治期の啓蒙思想家・教育者。
初め蘭学、後に英学を学ぶ。幕府使節随行として3度欧米に渡る。慶應義塾を創設し、在野にあって、教育と著者を中心に啓蒙活動を行った。著書「学問のすすめ」「文明論之概略」など。
緒方洪庵
おがたこうあん
 
田代基徳
たしろもとのり
1839-1898
江戸末期から明治にかけての外科医。
緒方洪庵の適塾で蘭学を学ぶ。軍医医監、陸軍軍医学校長を務め、松本良順等と医学会の始まりである、「医学会社」を起こした。「医事新聞」を発行して近代外科学の基礎を築いた。
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■中津藩
奥平昌鹿
おくだいらまさか
1744-1780
江戸中期の中津藩主。
絵画や和歌に優れ、前野良沢の蘭学研究や儒学を保護する傍ら、国学を賀茂真淵から学んだ。郡村税法の法令集を編纂するなど藩政にも力を入れた。
奥平昌高
おくだいらまさたか
1781-1855
江戸後期中津藩主、蘭学者。
薩摩藩主島津重豪の二男。中津藩主奥平昌男の養子となる。藩校進脩館を創設。国学者渡辺重名に国学・和歌を学ぶ傍ら蘭学を学んだ。中津辞書と称される「蘭語訳撰」(日蘭辞書)、「中津バスタード辞書」(蘭日辞書)を出版した。ペリー来航時に開国の意見書を幕府に提出した。
辛島正庵
からしましょうあん
1779-1857
江戸後期の蘭方医。中津藩医。
号は東渓。種痘の研究に努めた。嘉永2年(1849)辛島正庵を筆頭に10名の医師たちが長崎で痘苗をもらい、中津で最初の種痘を行った。
村上玄水
むらかみげんすい
1781-1843
江戸後期の医者、中津藩医。
文政2年(1819)3月8日、藩の許可を得て、解剖を行い、この解剖の記録を、「解臓記」「解剖図」として詳細に残した。
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■医学校
大江雲沢
おおえうんたく
1822-1899
江戸末期から明治にかけての医者。中津藩医。
華岡医塾大阪分塾(合水堂)に学ぶ。藩医の傍ら医塾を開き多くの門人を育てた。
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■解体新書
前野良沢
まえのりょうたく
1723-1803
江戸中期の蘭学者、中津藩医。
蘭学の開祖といわれた。杉田玄白たちと苦心の末、オランダ語の解剖書を訳して「解体新書」を著した。
杉田玄白
すぎたげんぱく
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■村上医家
村上玄水
むらかみげんすい
1781-1843
江戸後期の医者、中津藩医。
文政2年(1819)3月8日、藩の許可を得て、解剖を行い、この解剖の記録を、「解臓記」「解剖図」として詳細に残した。
村上宗伯
むらかみそうはく
 
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村上医家史料館
村上田長
むらかみでんちょう
1839-1906
明治期の医者、ジャーナリスト、教育者。
現福岡県秋月に生まれ、中津の村上家の養子となる。陽明学を学び、のち大阪医学校で学ぶ。県内最初の本格的新聞田舎新聞を創刊。大分中学校初代校長と大分師範学校校長も兼任し、玖珠郡長も勤めた。
村上巧児
むらかみこうじ
1879-1963
村上田長の四男。
早稲田大学を卒業後、新聞、デパート・電力会社と転職し、各方面で活躍。西日本の産業・経済界に多大な貢献。
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■その他
磯村豊太郎
いそむらとよたろう
1868-1939
明治期から昭和期の実業家、貴族院議員。
慶應義塾に学び、三井物産ロンドン支店長、北海道炭坑汽船社長ほか要職を歴任。中津の公会堂建築のため6万円を寄付し、公会堂は昭和2年に完成した。
田原淳
たはらすなお
1873-1952
明治期から昭和期の医学者、心臓病理学の権威。
安岐町に生まれ、中津の田原家の養子となる。東京大学卒業後、私費でドイツへ留学。哺乳類の心臓筋肉について研究し、田原結節の発見により学士院恩賜賞を授与された。
伊與田光男
いよだみつお
1895-1960
東京帝国大学応用化学科を卒業後、資生堂に入社。
香粧会の近代的発展、改良に努め、社長に推され、今日の繁栄の礎を築いた。
水島銕也
みずしまてつや
1864-1928
明治・大正期の教育者。
神戸商業講習所・東京外国語学校附属高等商業学校で学び、卒業後教師となった。神戸高商(現神戸大学)の創立委員となり、初代校長を勤め初期の商業教育に尽力した。
廣池千九郎
ひろいけちくろう
1866-1938
明治期から昭和期の教育者、法学博士、麗澤大学・モラロジー研究所の創設者。
中津市学校で学び、26才で「中津歴史」を著す。「古事類苑」の主席編集者。モラロジー(道徳科学)の研究に取り組んだ。
川村矯一郎
かわむらきょういちろう
1852-1891
中津市に生まれ、生涯、政治犯として3度の投獄経験を持つ。刑期を終えた出所者が社会復帰できるよう更生保護の会社を設立し、更生保護施設の建設とその思想の普及に努めた。
宇都宮仙太郎
うつのみやせんたろう〕
1866-1940
明治期から昭和期の北海道酪農の指導者、日本酪農の父、雪印乳業の創設者の一人。
北海道に渡り、農商務省真駒内牧場に牧夫として勤めたのち、
渡米して各州牧場やウイスコンシン大学などで酪農技術を体得した。
渡邊重名
わたなべしげな
1759-1830
中津藩国学者、古表神社(福岡県築上郡吉富町)宮司。
京都で儒学を学ぶ。また、荒木田久老や本居宣長に国学を学び、本居門下十哲の一人に教えられた。帰郷後、藩校進脩館の教授も勤めた。
末弘雲華
すえひろうんげ
1773-1850
江戸後期の僧侶。
豊後竹田の満徳寺に生まれる。京の東本願寺に学び、学頭にまでなる。懇望されて中津の正行寺の法灯を継いだ。書画にも優れ、京では田能村竹田ほかの文人と幅広く交友した。
島田虎之助
しまだとらのすけ
1814-1852
江戸後期の剣術家。
「男子の本懐剣にあり」と九州各地を武者修行。のち江戸に出て「剣は心なり」の極意を悟る。男谷信友の道場で免許皆伝を受け、浅草に真影流の道場を開いた。勝海舟は門弟の一人。
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