後藤又兵衛と伊福の里

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公開日 2015年04月01日 00時00分

PAGE耶馬溪町下郷地区から玖珠町古後に向かい、8キロ程進むと、「裏耶馬の景」と言われ、南画のよう な風景が広がるのどかな山里、伊福に辿り着きます。この山里の中程に、戦国の武将「後藤又兵衛」の墓があります。いろいろな物語や映画、テレビドラマに登場する有名な後藤又兵衛の墓が、どうして耶馬溪の伊福に あるのでしょうか。さあみなさん!これからそのお話をいたしましょう。
PAGE後藤又兵衛基次(もとつぐ)は、天正年間(今から四百十数年前)豊臣秀吉の命令により、豊前の国 を攻めた黒田官兵衛(かんべえ)の家臣で、黒田二十四騎の一人、二十四騎とは、武道に優れた強い武士と認められた24名の武士と言うことですが、その中でも又兵衛は槍の名人、「槍を執っては日本一」と言われる 程、槍を使うのがとても上手な武士でした。
PAGE幼い頃、黒田家にあずけられ、黒田官兵衛の子どもの長政(ながまさ)と兄弟のように育てられた又 兵衛は、黒田の重要な家臣となり、豊前の国の城井谷(きいだに)や長岩城攻めで奮戦し、多くの手柄をたてました。天正16年(1588年)4月5日、黒田官兵衛、長政親子は、3500名の兵を率いて長岩城に迫 り、三日三晩の戦いで、長岩城は落城しました。長岩城の戦いは、又兵衛15歳の時で、初陣(初めての戦い)でした。
PAGE黒田官兵衛が、中津を治めた13年間、又兵衛も黒田の家臣として仕えておりましたが、又兵衛が住 んでいた家は、中津の片端町(かたはまち)小屋横町(こやよこちょう)の一角にある大きな屋敷地にありました。
PAGEその当時から、又兵衛は、中津藩の領地内である伊福にも『領地見回り役』として、よく来ていたも のと思われます。中津から山国川に沿って約30キロ、下郷大島集落から金吉川に沿って、約8キロ、その頃の伊福に通う道は、両方に山が迫り、谷間は狭く、切り立った岩山ばかり、山道は狐か狸、野うさぎが通る位 の獣道のような原始林ではなかったかと思われます。
PAGE知人のお信は、その頃、中津の西蛎瀬という所に棲んで、又兵衛と親しく行き来していましたが、徳 川家康の取り締まりが厳しくなり、このまま中津に棲むことは危険だと知り、中津を去って、実家のある山深き伊福の里に、隠れ棲みました。 お信は伊福に来てから「お豊」と名前を変え、小さな小屋を建てて暮らして いました。
PAGE黒田長政が福岡を治める命を受け、中津を去るとき、又兵衛は、筑前大隈の城主となりましたが、主 君であった長政と、性格や考え方が合わず、城を捨て、黒田藩からも脱藩し、浪人となり、大坂に行きました。 豊臣秀吉の死後、徳川家康は豊臣に変わり天下をとるための戦いを繰り返しました。徳川家康から、播磨( はりま)一国をやるので、味方になれと言われましたが、『豊臣の恩を忘れ、心変わりするのは武士道に反する』と強く断り、大坂城に入りました。徳川はいよいよ大坂城に攻め入り、大坂冬の陣に続き、夏の陣を巻き 起こしました。又兵衛は、この戦いは『勝つ見込みはない』と知りつつ、秀吉の子どもの秀頼や、淀君を守るために、戦さに挑みました。歴史の上では、後藤又兵衛はこの大坂夏の陣で戦死したことになっていますが、 死んだのは、実は影武者で、大坂城が焼け落ちる前に、豊臣秀頼を護り、真田幸村と瀬戸内海から豊後の日出に上がり、薩摩の国の島津氏を頼りに落ち延びる計画を実行していたのです。
PAGE秀頼を護り脱出した一行は、無事に九州に上陸しました。薩摩の島津公を頼りに、ゆくゆくは『豊臣 再興』を、との願いを胸に、一端奥地の日田に入り、再会の堅い約束を交わした後、秀頼一行は、山川を越え、薩摩路へ…。一行と別れた又兵衛は、山里に隠れ棲み、豊臣再興の機会を狙おうと、昔からよく知っている 「お豊」の棲む伊福の里に向かったのでした。
PAGE又兵衛は、伊福のお豊の家に棲むようになりました。徳川方の目を逃れつつも、お豊と二人、畑を耕 し、山菜を摘み、地域の人たちともうち解けて、心穏やかに幸せな3年の日々を過ごしました。
PAGE住まいから約3キロの玖珠町下河内(しもがわち)の山中に、耶馬溪特有の岩に大きな洞窟がありま す。竈が岩(かまどがいわ)です。この洞窟の中で、子どもたちに手習いを教えていたと言われています。また豊臣再興を図るために、この洞窟に身を潜め棲んでいたという一説も伝えられています。奥に入ると湧き水 があり、現在はキャンプ地にもなっています。近くに温泉も湧き、観光客が日に日に訪れていますが、薄暗い洞窟を覗くと、数百年前の又兵衛の姿が、そこにあるように思います。
PAGE島津に落ち延びた豊臣秀頼が病気で亡くなったことを知った後藤又兵衛は、秀頼を失い豊臣家再興の 夢がやぶれた悲しみにうちひしがれ、承応3年(1654年)1月29日、お豊の家で自ら命を絶ちました。伊福集落の中程、昔この場所に御堂(住職のいないお寺)がありましたが、その前庭に村人によって、又兵衛の墓 が建立されたといわれています。現在のお墓は、村人が建てたお墓が、100年以上もたち、石碑が欠壊していたので、宝暦13年(1763年)、【今から244年前】に伊福茂助が建て替えたと書いてあります。墓には 後藤又兵衛の名前は、はっきりと書いてありませんし、年号も合わないのですが、当時の徳川幕府に遠慮し、わざとはっきり書かなかったのではないかといわれています。
PAGE伊福集落や、近くの玖珠町には、位牌、刀、鎧箱、茶碗など、後藤又兵衛の縁の品物がいろいろ残さ れています。この肖像画は、伊福のすぐ近くの玖珠町下河内(しもがわち)の西門丑男(にしかどうしお)さん宅に保管されています。日田市の大願寺の先代の住職が描いた物で、掛け軸を広げると、画面から身を乗り 出しそうにして姿が現れます。大きな切れ長の目は悲しげですが、絵に触れると体温が感じられるそうです。
PAGE伊福、深耶馬に至る広域農道耶馬溪ファームロードに入り、500メートルほど進むとお豊の岩が見 えてきます。30年程前から、熊本に棲む女性が毎年、又兵衛の墓を訪れます。その際、様々な供物を捧げて拝む不思議な岩があります。「墓より東の方向に、お豊の姿を映す岩があるはず」と民宿渕の上の、今はなき 古老に案内を請い、伊福の山々を探し求めて、数多くの岩の中から発見しました。丁度、お豊が打ち掛けを被り、女官を連れ、立っている姿に見え、後藤又兵衛や、伊福集落の安泰を祈る姿だと言われています。又兵衛 の墓といわれる「墓」は、全国に数カ所あるということです。 伊福の里に又兵衛の墓が再建されてから200年以上の歳月が流れましたが、四季折々の美しい裏耶馬の景とともにあり、村人から大切に護られています。 お豊が「よい里」の意味を込めて命名したといわれる山里伊福は、豊かな温泉が湧き、今も多くの旅人を迎えています。みなさんも一度、後藤又兵衛の墓を訪れてみませんか。
参照した文献「耶馬溪の歴史と文化総集編」外 耶馬溪町高年大学郷土史部会発行 、絵・武田 茂 文・矢野すみ子

お問い合わせ

耶馬溪支所 耶馬溪地域振興課
住所:〒871-0405 大分県中津市耶馬溪町大字柿坂138番地1
TEL:0979-54-3111
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