耶馬溪町の生い立ち

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公開日 2015年04月01日 00時00分

PAGE昔、山国谷と呼ばれていた山国川沿い一帯は、江戸時代、頼山陽により耶馬溪と呼ばれるようになりました。今では、山国川の支流も入れた広い地域を耶馬溪といいます。岩と森林と渓谷が見事に調和した美しい景色を楽しむために多くの人が訪れます。私たちの耶馬溪町はどのようにできていったのでしょうか?
PAGE恐竜がいたという中生代の次の時代、3千万年前から10万年前と言う新生代の頃までは、瀬戸内海と有明海とは海でつながっていて、九州は南と北の二つの島に分かれていて、耶馬溪あたりは海の底でした。人類はまだ誕生していない、遠い、とおーい昔のことですからはっきりしたことは分かりませんが、このような地形だったと思われます。
※「世界文化社…日本の歴史シリーズ(1) 日本の誕生の項」
PAGEこの新世代第三紀の終わりごろ、九州を南北に分けていた海の底で爆発が始まりました。耶馬溪火山の爆発といわれています。この爆発は、100万年以上も続き、流れ出した大量の溶岩や降り積もった火山灰が海を埋めていき、九州はひとつの島となりました。この爆発で英彦山、犬ケ岳、経読岳、雁股山、大平山と福岡県境の山々ができ、もう一方に中摩殿畑山、一尺八寸山、釣鐘山、樋桶山、桧原山の山々ができました。由布岳、鶴見岳はまだ出来ていなかったので、英彦山から流れ出た川は、土地の低い別府湾の方向に流れていました。※一尺八寸山隣の山国町にある山で、「三尾山(みおやま)」と読みます。伝説によると、この山に住む狐を捕らえたら尻尾の長さが一尺八寸あったからとか、三つの尻尾を持つ蛇が居て、その尻尾の長さを足すと一尺八寸あったからとか、田畑を荒らす猪三頭を捕まえてその尻尾を足したら一尺八寸あったからとか、大鼠を捕まえて、三つに分かれた尻尾の長さを足すと、一尺八寸あったからとかで、一尺八寸と書いて三つの尻尾の山と言う意味で三尾山(みおやま)と読みます。インターネット投票で、山の名前で難しい読み方コンテストで、日本一となりました。
PAGE耶馬溪火山の爆発から数万年たって、出所ははっきりしませんが西南の方から溶岩流が押し寄せてきました。前の耶馬溪火山と区別して新しいという字をつけて新耶馬溪溶岩流と呼ばれています。深耶馬溪から山移、下郷にかけて400~500メートルの台地ができました。長い年月がたつうちに100メートルも侵食されて今は300~400メートルのメサ台地となっています。英彦山から別府湾の方へ流れていた川は、道をふさがれ中津の方へ流れるようになりました。(図)それから、今度は阿蘇溶岩が流れてきました。10メートルほど積もりましたが、その後、侵食されてほとんど残っていません。(2007年になってこの阿蘇溶岩流に根こそぎ倒された杉林が日田で見つかりました。遠く離れた阿蘇山の溶岩流が日田の杉林をなぎ倒し、埋めてしまったのだそうです。) 耶馬溪火山の爆発、新耶馬溪溶岩流、阿蘇溶岩流、これら3回の火山活動で耶馬溪町の地形ができました。※メサ台地
頂上が平坦で周囲が急傾斜したテーブル状の台地。台地が浸食作用を受けて、抵抗の強い水平な地層がその下の抵抗の弱い地層に乗って、大きなテーブル状となったもの。
PAGE最初の耶馬溪火山の爆発で山国川の西側の地形(中津に向かって左側の地形)ができました。 地盤の大部分は、火山から噴出された火山灰や火山礫が降り積もり固まった集塊岩です。柔らかいところは侵食されやすく、英彦山の一部や青の洞門の競秀峰など独特の景色を作り上げています。英彦山、犬ケ岳から大平山に連なる山々は高く険しく、スギやヒノキの常緑樹が多く、犬ケ岳山頂付近にはブナの林があり、天然記念物のツクシシャクナゲが群生しています。
PAGEこれらの山々の谷は深く落合の滝、正木の滝などがあり、流れはとても急です。
PAGEもう一方の、山国川の東側(中津に向かって右側)は、新耶馬溪溶岩流に覆われたところで、その溶岩が冷えて固まった溶結凝塊岩が地盤で、大谷渓谷、岳切渓谷などは硬い一枚岩の川底となっています。深耶馬溪の谷の岩もコケもつかない硬い岩ばかりです。川の流れは緩やかで滝などはなく、山国川西側の集灰岩の風景とは趣が異なり、木々もクヌギ、モミジなどの落葉樹が多く、春の若葉もみじ、秋の錦もみじが美しい景色を作り出し、多くの観光客が訪れます。
PAGEやがて人類が誕生。  本耶馬渓町、屋形谷のへぎ遺跡の発掘で8~9千年前からそこには人が住んでいたことが判りました。耶馬溪町では、深耶馬のザットク遺跡から縄文土器、一ツ戸の妙が野遺跡から弥生時代の竪穴住居跡などが見つかっていて、3000年前から人が住んでいたようです。やがて集落ができ、財産があり力の大きな一族が豪族となり、集落を治めていきました。
PAGE奈良に大和朝廷ができ、九州の豪族たちもその支配下におさめられていきます。山国川は御木川(みきがわ)とか、三毛川(みけがわ)と呼ばれ、その流域は三毛郡と呼ばれていました。七世紀、律令制がしかれて、全国に行政区画が確立され、三毛郡は、都に近い方を上毛郡、遠い方を下毛郡とわけられました。上毛郡と宇佐郡の間が下毛郡で、下毛郡はさらに七つの郷に分けられて、山国郷に、下郷、山移、柿山、が入り穴石郷(ナイワ)に城井、津民が入れられていました。中津も下毛郡に入っていました。これらの地名は、次のように変化していきます。御木川または三毛川は後に山国から流れ出ているので後に、山国川といわれるようになりました。上毛郡は明治27年合併で築上郡となり、下毛郡は平成17年、やはり合併で中津市となり、上毛(こうげ)、下毛の名前が消えましたが、平成の合併で大平村と新吉富町とが合併して上毛町(こうげまち)と変わり、上毛の地名が復活しました
PAGE中世に入り、源頼朝が平家追討と義経探索の為、関東の御家人宇都宮信房を豊前の守護に任命。信房の弟、重房は野仲郷を領地としたので野仲と名乗るようになり、津民に長岩城を作りました。この長岩城は九州で最古最大の山城といわれ、鉄平石の砲座や石塁の跡が今も残っています。 1587年、豊臣秀吉が黒田官兵衛に豊前の国を与えたので、以前からの領主たちはこれに反抗して戦となりました。 野仲氏23代の野仲鎮兼は勇ましく戦いましたが、破れて390年間続いた野仲氏の時代は終わりました。 それから12年後豊臣氏は滅び、長い戦国時代は終わり、徳川氏の江戸時代となりました。
PAGE江戸時代、中津藩の領地でしたが、元禄11年(1698年)小笠原長胤が城主のとき、下郷の8箇所、宮園,樋山路、島、大久保、金吉、山移、柿山(深耶馬)、戸原、が天領となり、日田代官が治めることとなりました。 江渕と山国の中間との境には、岩がせせりだし越えることができず、川を渡って妙ガ野を通り、また川を渡って街道に戻るしかなく、雨で足止めとなったり、とても不便でした。 青の洞門が、開通してから55年後の1805年、日田代官所の指揮によって、中間側集落と江渕集落の両側から、村人総がかりの工事で、10年かかって、一ツ戸隧道が完成。長さ78メートル、明かり窓が7か所ありました。日田と中津を結ぶ日田往還の往来が楽になりました。 それまでは、川向うの妙ガ野を通っていました。ここで遺跡が発掘され、弥生時代の竪穴式住居跡や船着き場跡、伊万里焼や高取焼の破片が見つかり、古代から人が住み、後には、宿場町でもありました。(江戸時代貝原益軒が泊まっています。) トンネルができてからは、宿場町は一ツ戸に移り、伊能忠敬や頼山陽などは、一ツ戸に泊まっています。妙ガ野は、人の往来も絶え、今は田んぼとなっています。
PAGE江戸時代の終わりごろ、1818年12月、雪の深い頃広島の儒学者頼山陽が日田からの旅の途中、一ツ戸の宿に泊まり、山国谷を通って中津へ行きました。その時のことを、「耶馬溪図巻記」として出版。山国谷の山を耶馬、谷を溪として耶馬溪と呼び、耶馬溪ほど美しい景色は天下に無いとその景色を褒め称えました。頼山陽によって山国谷は耶馬溪と呼ばれるようになり、美しい景色として有名になりました。
PAGE1868年、大政奉還で江戸時代は終わり、明治時代となりました。 府県制となって下毛郡は小倉県に入れられ、次に、福岡県に入れられましたが明治5年大分県となりました。大正3年(1914年)耶馬溪鉄道は樋田から柿坂、15年柿坂から守実間が開通して、中津への通勤通学が便利になりました。バス路線の普及で昭和50年廃止となり、線路の跡はサイクリングロードとなっています。全国60コースの中でおすすめサイクリングコース第1位に選ばれました。(H15日経ランキング) 大正12年、耶馬溪一帯は国の名勝地に指定されました。 大正14年、城井村が耶馬溪村と名前を変えました。 山国川に沿った地域は耶馬溪と呼ばれていましたが、この時始めて村の名前に耶馬溪が登場しました。
※村上田長の「田舎新聞」に寄ると、江戸時代の年貢に代わって決められた地租の課税率は日本一高く、農民の生活は苦しく農民一揆が起こり多くの処罰者が出ました。
PAGE昭和25年、耶馬日田英彦山国定公園に指定されました。 耶馬溪ダムは、北九州市民の飲料水供給や工業用水などの多目的ダムとして昭和45年に工事が始まり、450億円かけて昭和60年に完成しました。 噴水による水面たたきとポンプ加圧装置、水底にある空気の泡で湖内の水を循環させる装置、深い底まで酸素を供給する装置、水を循環させる装置などこれら4つの装置でプランクトンが増えない様にしています。 (噴水から左回りに、湖底設置型、水面設置型、水面フロート型)
PAGE平成6年(1993年)から大分県では一村一文化事業の取り組みが行われ、耶馬溪町では、県の国際交流員でアメリカのアマチュア水上スキー6位のグラント・ガネル氏を指導者に迎え、翌年「耶馬溪アクアパーク」がオープン。 現在ではクラブハウス、浮き桟橋の設備ができ、プレジャーボート、水上スキー、ウェイクボード、湖面遊覧など水上スポーツや観光事業を行っています。2008年の大分国体ではウエイクボードの会場となりました。
PAGE町村合併奨励で次々に合併していきました。(昭和26年下郷、津民、山移が合併して中耶馬溪村。28年耶馬溪村(元城井村)と合併して耶馬溪村。29年深耶馬溪村と合併して耶馬溪村)。 昭和31年公募により村章が決まりました。円の中は山、周りの3つの円は友和を意味すると共に清流を表しています。 昭和40年耶馬溪町となりました。(町歌で、五つの民を一にして、新生の町、いま、ここに)と一つの町になったことを喜び歌っています。(町の木はモミジ、町の花はシャクナゲときまりました。) 平成17年3月、1897世帯、5461人の耶馬溪町は、下毛郡の他の町村と一緒に中津市と合併。3万4607世帯、8万6636人の中津市の一翼を担うことになりました。 市章は、中津城が扇型の城構えで扇城(せんじょう)とも呼ばれていたことから中の字を扇形にデザインし、合わせて市民の協調を表しています。
PAGE町内総面積の88パーセントは山林で、耕地はいくつかの谷間と台地上に点在している状態で、産業の立地条件には恵まれていません。 しかし、清流と深い谷間の霧にはぐくまれておいしい農産物ができます。そして、何よりも、この山と川が綺麗な空気と綺麗な水を作ってくれます。 この自然を守るために、今では毎年都会の人たちが木を植えに来てくれます。 ここに住んでいる私たちは先祖から受け継いだかけがえのない自然遺産を次の世代に伝えていきたいものです。
文 高川尚子〔歴史観光案内人〕 画 武田 茂(平成19年作成)
参考・・・「耶馬溪町史」昭和50年発行

お問い合わせ

耶馬溪支所 耶馬溪地域振興課
住所:〒871-0405 大分県中津市耶馬溪町大字柿坂138番地1
TEL:0979-54-3111
FAX:0979-54-2646
備考:迷惑メール防止のため @ は _アットマーク_ と標記していますので変更してください

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