雲八幡宮のおはなし

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公開日 2015年04月01日 00時00分

PAGEむかーし、昔、千何百年も昔のことです。 天皇様のお后(きさき)で神宮皇后(じんぐうこうごう)という、とても美しく、武勇にも優れた尊い方がいらっしゃいました。
PAGE戦っていた海の向こうの国を、無事に平らげて都に帰る途中… 『はるばる来ましたが、ここはどの辺りですか?』 『はい、山国(やまくに)の郷(さと)にございます』 山裾の小川のほとり、大きな石に腰を下ろしてお休みになりました。 『景色の良い所ですね』
※無事平らげる……無事に治めて
PAGE村人たちは見たことも無いような、美しく尊いお姿に集まって来て大さわぎ。拝んでいる人もいます。 元気を取り戻された神宮皇后さまは、やがて『皆、幸せに暮らすのですよ』と人々を励まして都へ帰って行かれました。ところが、被り物の笠を置き忘れています。 笠は海の向こうの韓国(からくに)から持ち帰ったものでした。村人たちは、その笠を後の山に納めました。それから、この山を韓笠山(からかさやま)と呼ぶようになりました。
※韓国(からくに)は韓国(かんこく)のことです。
PAGEそんなことがあってから、この石に不思議なことがたびたび起こるようになりました。 石に触ると鳥でさえも落ち、悪いことが起こると言うのです。 『さわるなよ』(大変なことがおこるぞ)村人たちは恐れて触らないように見守り、大切にしていました。 それから、何年も何年も経った・・・
PAGEある日、その石から、ものすごい雲がモクモクと立ち昇り、キラキラとそれは美しく七色に輝いています。 『何だ、何だッ!』びっくりした村人たちが大勢集まってわいわいガヤガヤ。と、その時、突然、韓笠山から、ピカッ、ピカッピカーッ。
PAGE雷の大きな音と共に、稲妻が七色の雲に走ったと思ったらその雲の中から、子どもの姿をした神様が現れました。 村人たちは、『ハハーッ』とひれ伏して、『雲から生まれた神さまだッ』『もったいない…』と口々に言いながら拝みました。 それから雲石の前では、いつも村人が集まって、お祭りが行われるようになりました。 今の雲八幡宮の、元のお宮、ということです。
PAGEさて、それから何年も何年もたって、今から1000年以上も前の天延元年(973年)のある日のことです。 今度は奈良の都から、少納言清原の正高(まさたか)という、とても身分が高く、笛の上手な貴族がやってきました。でも、それは悲しい悲しい恋物語の始まりです。 少納言、正高卿が愛した小松女院(にょいん)は、とても美しい姫君でした。 でも、あまりに身分が高くいらしたので、少納言とは仲を引き裂かれ、女院は今の鳥取県、因幡(いなば)の国に、少納言は遠い九州、豊前の国、宮園村に追いやられたのでした。
PAGE少納言正高卿がたどり着いたのは、宮園とは目と鼻の先、今の下郷小学校の辺り、「島」という村でした。 『大水ではないか。これでは川を渡れない。川の名は、何というのだ?』 『ハイ、山国川と申します。この分ではしばらく渡れますまい。粗末な家ですが、家にお泊まりになっては・・・』と村の人の親切に、しばらく泊まって水の引くのを待つことにしました。 やっと水も引き、久しぶりに清々しく晴れわたった朝、
PAGE『主(あるじ)よ、泊まったお礼に、奈良から持ってきた春日大社(かすがたいしゃ)の守神(まもりがみ)を授けよう。おまつりするがよい』 そう言って胸に抱いてきた守神様を村の人に渡し、宮園へと川を渡って行きました。 その時から、この地を「奈良」と呼ぶようになり、今でもそこには春日様の祠(ほこら)が祀(まつ)られているのです。
PAGEこうして、少納言正高卿が、ようやく配所の宮園村に入った時、ぴいひゃらドンドン、ぴいひゃらドンドン。 大きな石の前で、村人たちがお祭り騒ぎをしています。突然あらわれた高貴な姿の正高卿に、村人は改まって、『今日は、村の守護神、雲石に現れた八幡様のお祭りなんでございます』と申し上げると、正高卿は、『もったいない、ありがたい』とつぶやきながら、うやうやしく拝んで言いました。 『立派なお宮をお建てしよう。立派な神様には立派な神殿がよい』 少納言正高卿は、少し川上の、今のところに遷してお祀りすることにしました。 村人たちも協力して、やがて、立派な神殿が立ちあがりました。
PAGE新しいお宮の前には池も掘られました。 逢うことのできない、愛する小松女院を偲ぶため、少納言は「面影の池」と名付け、夜毎、池に映る月を眺め、笛を吹いて小松女院の面影を偲んでいました。
※参考「むかし見し都の池の面影に変わらで澄める池の三日月」 この池のあった所は道路になって今見る術(すべ)もありません。 悲しい思いの少納言は、やがて宮園をあとに、豊後の玖珠へと移っていきました。
PAGE一方、因幡の国に追いやられていた小松女院は、少納言正高卿が、面影の池に小松女院の姿を偲んでいた頃、一体どうしていたのでしょうか。 そうです、実は12人の侍女をお供に、隙を見て配所を抜けだし、遠い遠い九州をめざしていたのです。山を越え、海を渡り、正高卿に逢いたい一心で、何日も何日も、険しい道を歩き続けました。
PAGEやって来たところは肥後の国(熊本県)の小国(おぐに)というところでした。 古い社(やしろ)のそばに、こんこんと清らかな水の湧いている池がありました。 侍女たちが、はしゃいで『まあ、何と美しい…』と声を上げていると、『願をかけると叶う池じゃで・・・』と村の人が教えてくれました。 女院を小さいときから育て上げてきた乳母(めのと)は膝をうって、『ほ、良い思案じゃ!女院さま,首尾よく正高様に逢えますよう、願をかけましょう』 『そうですね。鏡は女の命、鏡を池に捧げて祈りましょう』 乳母を始め、侍女たちも皆、懐の手鏡を池に投げ入れて、『神さま、神さま・・・』と一生懸命に祈りました。この池は、それから「鏡が池」と呼ばれ、今でも涸れることなく美しい水が湧き出ています。
PAGE女院たち一行は、足を引きずるようにして、更に先を急ぎます。 しかし、年老いた乳母には余りに無理な旅でした。 眼の下に大きな滝の見える下城(しもじょう)の里まで来た時、とうとう力尽きて・・・、『どうか、どうか正高さまに無事にめぐり会えますように・・・』と言い残して死んでしまいました。 『なんと憐れな・・・ウ、ウ、ウ』女院は身もだえして悲しみ、侍女たちも泣き崩れました。泣く泣く乳母をそこに葬り、一本のイチョウの木を植えました。 今、「下城の大イチョウ」と呼ばれ、それはそれは大きな木になり、うっそうと枝を広げています。
PAGEまた、とぼとぼと一行が旅を続けるうちに、やがて玖珠の嵐山という所にたどり着きました。 そこで出会った一人の樵(きこり)に、『もうーし、ちと物をたずねまするが・・・』と年かさの侍女梅の前(名前)が呼び止めて、『この辺りに、少納言清原の正高というお方は、おられませぬか?何かご存じないか?』息せききって尋ねると、樵はかついでいた斧を下ろして、『知っちょるとも、知っちょるヨゥー。少納言さまはナァ土地の頭(かしら)の姫と結婚なさって、しあわせに・・・』『ケ、ケ、ケッコン!結婚とな・・・』聞き終わらぬうちに梅の前が聞き返すと、樵は悪びれず、『可愛い子どもたちも、できなさってのー』と言いながら去って行きました。 女院さまは青ざめて泣き崩れています。侍女たちも皆女院さまにすがりついて、『やっと、居場所にたどり着いたというのに・・・』と、涙をしぼっていつまでも泣いていました。 遠くでド、ド、ドッと、滝の音がしています。女院はヨロヨロと立ち上がり、力無く歩き始めました。
PAGE 『女院さまーッ・・・』口々に声をかけながら、侍女たちもそれに従います。幅の広い大きな滝でした。ド、ド、ドッ。 女院は滝の上に立って、何かをつぶやいているようでしたが、やがて、消え入るような声で、『皆、長い旅路を今日まで、よくぞ従うてくれました。礼を言いまする。かくなる上は・・・もはやこれまで』と言うがはやいか、サット身をひるがえし、滝壺に飛び込んでしまいました。 梅の前が、『おいたわしや女院さまー、私もすぐお供いたしまするぅー』と叫んで後を追うと、それに連れて他の侍女たちも皆、衣をひるがえし、12人ことごとく滝壺に消えていきました。 何ともすさまじい有様でした。
PAGEこの大事件の知らせは、少納言のもとにすぐに届きました。正高卿の悲しみは一通りではありません。 しかし、もう取り返しがつかないことでした。 深い悲しみに堪えながら、滝のほとりに小松女院と侍女たちの奥津城(おくつき:お墓のこと)を建てて、ていねいに葬りました。 そうそうそれから、あの時出会った樵のことです。 あまりの悲惨なできごとに、驚いたのは言うまでもありません。自分があんなことを教えたばっかりに・・・と、責任を感じて身をさいなみ、思い悩んだあげく、とうとう樵も滝に飛び込んで、死んでしまいました。 樵の亡骸は、ずうっーと川下の浮羽という所に流れ着きました。土地の人々は、樵を憐に思い、木樵大明神(もくしょうだいみょうじん)と名付けておまつりしたということです。(おわり)
文 秋永勝彦(雲八幡宮宮司)、絵 池邊優雅(APU大学生)、担当・読み手 矢野すみ子

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