耶馬溪出身 朝吹英二翁ものがたり

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公開日 2015年04月01日 00時00分

PAGE耶馬溪出身 朝吹英二翁ものがたり
文 吉森 晶子
絵 須賀 瑠美子
PAGEここは、耶馬溪町宮園、かっぱ祭りで有名な雲八幡宮の近くです。老夫婦が何やら大きな石碑のまわりを掃除していました。「だれの石碑なのですか」と尋ねました。「この人はね、朝吹英二といって明治の頃に、この村から出た、とても有名な人で、その功績を讃(たた)えた石碑なんだよ」と教えてくれました。私たちは興味がわいて、調べることにしました。
PAGE朝吹英二翁は、三井財閥の四天王と呼ばれ、明治の産業界、経済界に大きく影響を与えた人でした。ご覧のように、日本で有名な会社の経営に携わってきました。
PAGE英二は、江戸時代の終わり、嘉永2年(1849年・2月18日)豊前の国、下毛郡宮園村で、朝吹家の次男として生まれ、幼名を萬吉といいました。家は、苗字帯刀を許され、次兄、謙三が継いだ 十五代までは九州の中でも、大きな庄屋でした。厳格で、几帳面な父「泰造さん」、おだやかで気だての優しく、着る物に困っている人には服をあげたり、お金に困っている人にはお金を援助をするという慈悲深い母「幾能(きの)さん」のもとで、平和で幸福な幼年期を過ごしていました。6歳の頃、現在の山国町中摩村にあった、医師で教育者の村上姑南の塾「養翼園」に学びました。姑南には、英二の叔母が嫁いでいました。姑南は、江戸時代末期、当時の難病だった「天然痘」の予防法を習得し、多くの子どもたちの命を救った人でした。英二も9歳の時に、天然痘にかかり、命は助かったものの、顔いっぱいに「あばた」ができ、顔は月の表面のようになってしまいました。生涯、大きな丸い顔に、この「あばた」がトレードマークになりましたが、天真爛漫で、憎めない性格と太っ腹の人柄、才能が人々を惹きつけていきました。
PAGE家系図は、このようになっています英二翁の弟「範治」さんは、吉富町の、野依家へ養子に行き、そのひ孫の(名古屋大学教授)野依良治先生が平成13年に、ノーベル化学賞を受賞しています。また、英二翁のひ孫の亮二先生は、現在、慶應義塾大学の教授でフランス文学者であり、詩人です。亮二先生の娘さんで、英二翁にとっては玄孫(やしゃご)の真理子さんは(歌舞伎の研究者であると共に)作家としても有名で、平成23年、小説「きことわ」で芥川賞を受賞しています。このように、朝吹家一族は、明治から昭和にかけて、華麗なる一族となりましたが、その基礎を築いたのが英二翁でした。
PAGEさて、子ども時代に話は戻ります。ある時英二は、村上姑南先生から買い物を頼まれ、途中で、お釣りの一銭を無くしてしまいました。「先生、どこかで一銭を無くしてしまいましたが、お償いをすると私のお金も無くなるので、無くした一銭は私にください」と正直に言いました。「この子には、なかなか面白いところがある」と目を付けた先生は、後に出てくる、藤本箭山に話したそうです。そのことが、大阪の福澤諭吉に伝わったといわれています。11歳で、朝吹彦兵衛家の養子となり、名を鉄之助と改名しました。しかし、事業(造酒業)の失敗で彦兵衛家は傾き、16歳で実家に戻りました。この頃から、英二は商才に長け、米や豆、材木の売買や相場を試みていました。「田舎には過ぎた人だ、行く末、この地にいる人間ではない」と噂されていました。この頃、名前を英二と改名しました。 慶応2年(1866年)英二 17歳の時、中津に出て、渡辺重春塾(※)や、白石照山の漢学塾に入門します。保守主義の感化を受けて、攘夷思想を抱いて、福澤諭吉の二従兄弟の増田宗太郎等と国学を学びました。
※ 渡辺重石丸(いかりまる)の道生館
PAGEその後、日田の豪商、広瀬家の長男、広瀬淡窓が開いた、幕末最大の漢学塾「咸宜園」に入門しました。咸宜園は当時、日本全国から学問を志した人々が大勢集まっていました。
一つ、国内最高の漢学を身につける。
一つ、指導者としてのリーダーシップを身につける。
一つ、道徳心等の人間性を身につける
という、人間として大事な三つの力を身につけました。
PAGE明治2年(1869年)大阪に出て、福澤諭吉の従兄弟で漢学者、藤本箭山(ふじもとせんざん)の弟子となりました。当時、中津では福澤の西洋思想に反感が強く、「売国奴」と批判されていました。英二もそのように批判する一人でした。翌年、福澤諭吉と初めて対面した時、牛肉を食べたり、風呂でシャボンを使ったりする福澤諭吉の西洋かぶれの態度に英二は腹を立て、増田宗太郎と暗殺を計画、しかし、失敗に終わり、逆に福澤諭吉に接して英二は、自分の攘夷の考えの愚かさを悟りました。そして諭吉の人格、見識に影響を受け、一転して師と仰ぐようになり、中津出身の小幡篤次郎、浜野定四郎(さだしろう)、中上川彦次郎、和田豊治、小幡英之助とならび 福澤山脈のひとりと呼ばれるようになりました。諭吉は「身をもってことにあたる」という人でした。英二も子どもの頃から養子に行った家では、酒造学、実家では米相場など、いろいろな事をし、更に九州一と言われた名家を飛び出して福澤先生の考え方に惚れ込み、住み込み書生として、福澤邸の玄関番をしていたように、「何事にも縛られない」点が、諭吉と共通していました。
PAGEその後、英二は慶應義塾に入り、明治5年には、慶應義塾出版局主任となり「学問のススメ」「文明論の概略」などの大ベストセラーの出版、特に海賊版の取り締まりに従事しました。明治8年(1875年)その人柄と才能が諭吉に見込まれ、諭吉の姪で、中津出身の中上川彦次郎の妹「澄さん」と結婚しました。
PAGE明治11年(1878年)三菱商会に入社、商才を発揮してライバルの三井と競争しました。英二独特の人を惹きつける魅力や、その太っ腹な人間味によって政治家、特に大隈重信、尾崎行雄らと物心両面に交流を深めていきました。その後、明治の日本を代表する多くの企業の中心人物として活躍して行きます。明治22年(1894年)三井工業に入社、専務理事となり、その後三井物産取締役となりました。 慶應義塾の福澤諭吉からも愛され、早稲田の大隈重信からも信頼され、対立関係にある三菱にも三井にも勤めたという希にみる人物でした。特に、三井のリーダーとして、中津出身の中上川彦二郎と共に、三井財閥の基礎を構築しました。その中で、「前代未聞の借金王」とも呼ばれましたが、その苦境の中でも、実によく人の面倒を見続けました。例えば現在、下郷小学校にある「坂上文庫」を寄贈した坂上忠治氏は、東京の朝吹家の「書生」に入っていました。また大牟田の三井炭坑の医者、木村長司さんも、朝吹翁がひきたてたと言われています。また、耶馬溪から上京した知り合いが、お金に困っていると、胸の財布をポンと財布ごと上げたというエピソードも残っています。きっと幾つもの財布を、いつも持っていたのでしょう。
PAGE明治44年(1911年)65歳で財界活動の全てを去り、引退して一人の風流人となって、茶の湯、骨董を楽しむ隠居生活に入り、文化人としても、井上馨総理大臣ともひけをとらない人物でした。大正5年(1916年)実弟、野依範治氏が亡くなり、翌(1917年)英二翁は、古釘を踏み、怪我をしたことで引きこもりがちになり、その後、大正7年(1918年)1月31日、70歳で亡くなりました。
故郷
故郷の野べに、くさつむをとめこを たかうまことヽひてみしかな 柴庵
その翌年、澄夫人も後を追うように、59歳で亡くなりました。
PAGE英二翁は生前、故郷「宮園村」に心を注いでいました。帰郷した折、竹馬の友から、宮園村に共同の秣苅場が無いので、苦労していると聞き、裏山の官有地を買い上げ、村人の大事な牛馬の牧草地として、村に寄贈しました。村人は「唐笠の野焼」と言って折々に野焼きをして生活のため、役立てていました。そこで、村人は村を上げて、頌徳碑建立を思い立ちました。しかし、英二翁は、あまりそういうことを好まず、断固断りました。英二翁の死後、長男常吉氏の承諾を得、時の総理大臣の犬養 毅氏の協力のもと、あの朝吹翁の頌徳碑が建立されたのでした。
PAGEまた、宮園の東、村はずれに『林天満宮』の社があります。母が信仰を深めていた社であり、英二翁の幼い頃の遊び場でした。東京の英二翁からの手紙に、「天満宮の社が破損している夢を見たから調べてみよ。もし事実なら寄進をして修繕したいから」と言って、夢のままの図面を入れて送ってきました。林天満宮に行ってみると、その通りなので、驚き、報告すると、早速多額のお金を送ってきたといいます。その他にも氏神の『雲八幡宮』やお寺の修繕、灯明燈の基金、道路、橋梁の普請に至るまで、頼めば必ず応じてくれました。英二翁の故郷を愛する心に感動した村人たちは、その後、一致団結し村の再生に心がけたと言われています。
PAGE英二翁の生家は、今では宮園集落に寄贈され、公園となっています。公園の入り口には、英二翁が帰郷のたびに、「愛護してくれ」と言い残していたという松が今も姿を留めています。また、両親 泰造さん、幾能さんや先祖の墓も、朝吹隆雄さんを始め、地元の人によって、維持管理され、菩提寺の「雲西寺」さんによって、供養されています。
PAGE日本が近代化していく動乱の中、多くの人を引きつけて止まない、その人間的魅力を持って生き抜いた英二翁。そのお墓は、鎌倉「円覚寺」にありますが、故郷を想い続けた心は、唐笠山から、静かに宮園の里の人々の生活を見守っているようです。 これで、明治の経済界に大業績を残した「朝吹英二ものがたり」を終わります。 耶馬溪という小さな片田舎から一人、大志を抱いて大きな世界に翔びだしていった英二翁の、その勇気と志に想いを馳せたいと思います。(おわり)
参考文献  大西理平編纂『朝吹英二君伝』・小島直記著『福澤山脈』(上・下)

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耶馬溪支所 耶馬溪地域振興課
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