一つ戸城と周辺の歴史

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公開日 2015年04月01日 00時00分

PAGE国道212号線を日田へ向かっていくと、耶馬渓町と山国町との境に、標高364.5メートルの入道雲のような形をした妙見獄が、むっくりと空に伸びあがり、断崖絶壁となって山国川にのしかかっています。この絶壁の上の台地にお城があったので、地元の人は「城山」と呼んでいます。今は城跡(しろあと)が残っているだけですが、不思議なことに、耶馬渓町の人たちは、「一つ戸城」と呼び、山国町の人たちは、「中間城」と呼んでいます。
PAGEお城は、耶馬渓町の下郷地区と、山国町の中間地区と両方面を見渡せて、南を神谷川、北を一戸川、東を山国川に囲まれた天然の要塞として、険しい山頂に作られ、中世戦国時代には、敵の攻撃を防ぐには最適の山城でした。大手門は山国町の神谷側にあり、館は山の上に作られていて、そこには、城主とその一族が住んでいました。
PAGE家臣達は、麓の神谷集落、や一戸集落に住んで、いつもは農業を営み,戦となれば領主に従い出陣して行きました。
PAGE城跡(しろあと)には 、 地元の人たちが「馬飛ばせ場」と呼ぶ、長さ500メートル、幅30メートル、広さ4ヘクタールの細長い形の台地があり、馬術の訓練をしていたようです。麓には、清水がこんこんとわきだす所があり、戦で城に立てこもった時にも、水に困ることはなかったようです。城の南方、妙見嶽とよく似た岩山に、山国方面の見張り砦として鳶が城、反対の北方、江渕集落の山の上には、耶馬渓方面の見張り砦として、下城をそなえていました。
PAGE一戸城が、いつ、誰によって作られたか、はっきりした記録はありませんが、永和3年(1377年)、足利三代将軍義満の時、友杉民部が仲間郷の地頭に任命され、妙見獄に城を作った、というのが定説となっています。友杉民部のあとも、城主としてのはっきりした記録は残っていません。中間市の氏神である亀岡八幡宮や、その他の神社に寄進した人として大江朝親、大江忠親、大江道親の名前が記録されていて、彼らが城主であったと思われます。「仲間家」の系図は、友杉左馬助から、始まっています。友杉左馬助は、1540年から1580年頃活躍した人で、一つ戸城最後の城主、中間統胤の父でありました。左馬助は、書状や文書には中間房俊、神社やお寺への寄進には、大江親貞、長岩城の野中氏とともに大友宗麟と戦った時には一つ戸与市、系図では友杉左馬助と、四つの名前を使い分けていたようです。
PAGE戦国時代も終わろうとしていた時、九州では島津氏と大友氏との争いが激しくなっていました。島津氏に攻められて、追い詰められた大友宗麟の要請で、天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州平定に乗り出し、其の先遣隊として、前の年黒田孝高が豊前に派遣されました。黒田氏の支配に対して、豊前の領主たちは、激しく反抗しました。
PAGE一戸城の城主、中間統胤も、同じように一揆をおこしますが、戦に負け、城に退却し、籠城しました。そこで、黒田孝高からの密書を受け取り、家来たちに黒田孝高の内々の意向を伝え、意見を書かせました。降参すれば、領地も身分も失うかもしれないが「仲間家」は残る。徹底抗戦すれば、「仲間家」は潰れる。当時は、人より家を重んじる時代で、「家名をつぶしてはならない」という思いが強かったのです。統胤は降参すべきかどうか、家来たちに胸の内を書いた札を出させました。その結果は、皆が「降参すること」に同意したのです。「中間家」の家名を残すことを選んだみんなの意思に従い、黒田孝高に降伏しました。中間統胤は、黒田氏の信頼厚く、黒田の名前をもらい、黒田六郎衛門と名乗りました。一戸城は中津城の出城となり、統胤は城番となりました。
PAGE豊臣氏がほろび、江戸時代となり、黒田家を継いだ黒田長政は中津から筑前福岡へ国替えとなりました。統胤も家臣を伴って一戸城を去り、福岡城の出城、筑前小石原の松尾城の城主となりました。黒田公の後、中津城城主となった細川公は、荒川少兵衛を一つ戸城の城番としました。江戸幕府2代将軍秀忠が出した、一国一城令により、1615年、一戸城は壊されてしまいました。
PAGEさて、妙見嶽の下、山国川の川向こう、妙ケ野地区には縄文時代からの歴史が眠っていました。平成6年、圃場整備の現地調査の際、土器のかけらが出てきたので、発掘調査が行われることになりました。田んぼの水路の関係から現状保存が困難な部分のみの調査となりましたが、たくさんの遺跡と遺物が発見されました。
PAGE最も古いものは、縄文時代後半の土器や石器と水田跡です。この水田跡は山国川流域で発見されたものの中で最も古いものと思われています。船着き場跡と思われる石組も出てきました。船着き場はいつごろ作られたかは分かりません。昔から、山国川上流で切られた材木を、筏に組んで流していましたが、其の筏をつなぐ場所だったようです。江戸時代、筏師が一戸の宿に泊まったことが宿帳に記録されています。川が荒れたとき船着き場に筏をつなぎ、川が収まるのを待ったのでしょう。
PAGE妙が野遺跡の特徴は、掘立柱の建物跡が沢山あることです。柱の穴の深さは20~30センチ、建物は大きいもので8m×8m狭いものでは5m×1.8mぐらいでどれも簡単な作りの建物だったようです。弥生時代の竪穴住居跡の柱穴も、出てきました。一周辺には、溝や他の竪穴は見つからず、この住居跡が、集落の一部であるかどうかは、調査の範囲内では、わかりません。
PAGEここからは、土器や石器、江戸時代の陶磁器などたくさんの遺物が出てきました。寛永通宝、という貨幣も出てきました。寛永通宝は寛永3年(1636年)から明治2年(1869年)までつかわれた通貨です。(藩札の説明:児童が相手のときに読む)江戸時代それぞれの藩が出す藩札は、藩の中だけしか使用できませんが、幕府の出す貨幣は、全国どこでも使うことができました。妙が野で、貨幣が出てきたことや、高取焼や伊万里焼など高価な陶磁器もでてきていることから、宿場町であったと思われます。元禄11年(1698年)小笠原長胤が中津城、城主の時、下郷地区は天領となりました。それ以後は、日田代官が治めることになり、日田ー中津の往来が増えただろうと思われます。江戸時代前期の人、貝原益軒が、「妙が野に泊まった」と旅行記に書いています。
PAGE雲八幡神社から山国町方面500m程さきに、岩山が山国川にせり出して道をふさいだ所があり、ここを超えるのは大変でした。また、その先には妙見嶽の断崖があり、通り抜けることはできず、川を渡り、妙が野集落を抜け、また川を渡って街道に出なければなりません。川の深いところは、直径1メートルほどの竹かごに大きな石を詰め込んだ蛇かごを4mおきに固定して、その上に丸太を組んで渡した簡単な橋がありましたが、洪水で流されれば、また作らねばなりませんでした。中津と日田を結ぶ街道では、宮園と一つ戸の2か所は、難所であり、大変不便でした。
PAGE寛政3年(1791年)松平定信の行った「寛政の改革」で、農村復興策として、日田郡代の揖斐造酒之助は、先に述べた、通行の難所である宮園と妙見嶽のトンネル工事に取り掛かりました。工事は次の郡代、羽倉権九郎に引き継がれました。宮園トンネルと一つ戸トンネルの掘り抜きは宮園集落、山国側から一つ戸トンネルへの取り付け道路は、中間集落の受け持ちと決められて、官民一体の工事が始まりました。14年かかって1805年、長さ33、99m、高さ2、52m、幅2、28mの宮園トンネルと長さ78、18m、たかさ2、41m、幅2、24m、明かり窓7か所の一戸トンネルが完成しました。ノミと槌で掘り進む血のにじむような作業だったことでしょう。完成から7年後の1812年伊能忠敬の「測量日誌」に、この二つのトンネルを測量したことが書かれています。13年後の1818年12月頼山陽は、一つ戸トンネルの明かり窓から見た月光に生える情景に感動したことを「耶馬渓図巻記」に書いています。
PAGEトンネルができてからは妙が野を通る人もなくなり、やがて田んぼになっていきました。宮園トンネルは跡かたもなく壊され、一つ戸トンネルは、昭和31年、国道212号線拡幅工事の時壊されて、7か所あった明かりとり窓は一つを残すのみで、そのほかは、今の道の下に埋められてしまいました。昭和52年今のコンクリートトンネルが完成しました。
PAGE一つ戸城の麓、一つ戸集落は行政上の地名は、中津市耶馬渓町大字宮園で、小字には「町上」 「町口」 「町浦」 「二の丸」 「兵部殿屋敷」、等、城下町独特の字名が残っています。「蛭子宮」が祭られ、其の前で市が立ち、にぎわっていたようです。副業としての宿屋もあり、何軒かは、大正の末ごろまで営業していました。
PAGE城跡は、中津市指定の史跡となっていますが、台風で倒された木々があちこち横たわり、石垣は崩れて、木は生い茂り、荒れ放題となっています。見張り砦であった鳶が城や下城、足下の山国川や道路など全く見通せません。「一つ戸城保存会」の方たちが、木を切ったり急斜面にはロープを張ったりして、登山道の整備をしています。一つ戸城は、天然の要塞として作られた山城でした。城跡に登ると、中世の山城の面影が、感じられます。後世に残し伝えていきたいものです。
「参考文献」・溝渕芳正著 「豊前一戸城誌」・耶馬渓町教育委員会 「妙ケ野遺跡」(耶馬渓町文化財調査報告書 第一集)・「耶馬渓町史」・「山国町史」
文 髙川尚子
絵 高崎洋介

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