城井八幡社の歴史

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公開日 2015年04月01日 00時00分

PAGEここは中津市耶馬溪町大字平田
山国川に面して大きな鳥居があります。 「城井八幡」や「若宮」と地元の人は呼んでいます。 どうしてなのか耶馬夫君と溪子さんが調べることにしました。 水害の後片付けでお忙しい中、太田宮司さんが、やさしくお話をしてくださいました。
PAGEこのお宮の歴史は古く、鎌倉時代に遡ります。武士の長・源 頼朝の命令で、豊前の国下毛郡野中郷平田村の野仲二郎重房は、建久九年一一九八年鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の神様をお迎えすることにしました。神官さんを始めとして26人のお供とともに神輿を担いで難波津より船出し、今津浦に着きました。そして 神輿は中津の植野村で一泊しました。今の「若旗神社」です。そして翌日平田村に着きました。
PAGEまだ社殿はなかった為川の中の大きな巌(いわお)の上に仮御殿を建て、その後に今のお宮の場所に移りました。
PAGE「社(やしろ)」の名称は、「城井八幡社」なのに近所の人は、どうして「若宮」や「若八幡宮」などと呼んでいるのでしょうか。それは、今から八三〇年あまり前、1180年に源頼朝の祖先が、京都の石(いわ)清水(しみず)八幡宮を鎌倉の海岸より由比郷におまつりしていた八幡宮を北山に移しました。しかし火事のため焼失。それで、上方の鎌倉に鎌倉宮を建て移しました。(遷宮)それが鶴ヶ岡八幡宮の本社です。と同時に北山の焼けた跡にも宮を建て仁徳天皇を祭りました。これを「若宮」と呼びました。建久九年野中氏が、この平田の地に神様をお迎えした時にこの二社を合わせてお奉りしました。城井八幡宮を「若宮」と呼ぶのは、鶴ヶ岡の「若宮」に因ん(ちな)で、こう呼ばれていたのでしょう。また、「若八幡宮」というのも無論最初からのことで、これは「若宮」と「八幡」を合わせた呼び方だったと思われます。お宮の名称にもこんなに難しい歴史があるんだなあと僕たちは思いました。
PAGEどうしてこの耶馬溪より遠い鎌倉の話が出てくるのでしょうか。それは鎌倉時代に遡ります。関東の宇都宮信房は、1187年源頼朝の命によって、琉球の平家残党を追討し、その褒美に豊前の守護職に命ぜられました。 中津郡城井郷に入って城井氏を名乗りました。信房の次男重房は、1195年、城井郷の地形に良く似たこの周辺の野中郷を与えられ代々相続であったため宇都宮姓から、野中氏を名乗ることになりました。そして小屋敷(おやしき)城(じょう)を築き1198年長岩城を築き本城とし、白米(まったけ)城・一ッ戸城・雁(かり)股(また)城等を築き出城としました。
PAGE野仲氏が治めた22代四百年余りという長い歴史の中には数々の修復が行われました。千五百八十四年(1584年)には、野仲(のなか)重兼(しずかね)が、家来の百留河内守に命じこのお宮の石垣を築きました。
PAGE今は消えかけていますが、このことは神社の石垣の石にしっかりと天正十二年十一月百留河内の守と刻まれています。
PAGE今では前を県道が通っていますが、昔は全て神社の境内でした。こんなこともしていたそうです。山国川に沿うこの周りは馬場で「流鏑馬(やぶさめ)」が行われていました。長さ百八十間(けん)(342メートル)横八間(15.2m)外は立派な松原がありましたが、寛(かん)文(ぶん)九年(1669年)の洪水で、川岸が崩れ松原も少なくなりました。今では、桜並木となり春人々の目を楽しませています。また奉納相撲大会も近年まで盛んでした。
PAGE時代は移り天正十五年豊臣秀吉が、全国統一のため九州征伐を行い豊前(ぶぜんの)国(くに)六群をせめて黒田官兵衛孝(よし)高(たか)に治めさせました。官兵衛は、中津川に城を築こうと、昔からの郷族にその手伝いをさせようとしました。しかし、城井郷の宇都宮朝房(ともふさ)と野仲郷の野仲鎮兼(しげかね)はその命令に従わずに戦(いくさ)になってしまったのです。同じ年四月五日黒田氏は、鎌兼の本城長岩に押し寄せ、三日の合戦の末見方に裏切り者もありついに落城しました。こうして野中氏が治めた約四百年続いたこの土地は黒田の所領となり家臣栗山備後の守利安が、福岡へ国替えとなるまで平田の白米(まったけ)城(じょう)を居城としていました。
PAGEしかし城井八幡社は、神官さんや氏子さんとともに現在に至っています。また鎌倉から御輿(みこし)とともに来た26軒のお供は神官(じがん)と呼ばれ現在断絶なく「神官(じがん)まつり」といって神事を行っています。
PAGEそれではお宮の行事の紹介をします。一月一日の歳(さい)旦(たん)祭(さい)に始まり春の祈年祭(きねんさい)夏の祇園祭などさまざまな行事が行われます。その中でも大きな行事が、十月に行われる例(れい)大祭(たいさい)です。例大祭の一日目は、神官(じがん)祭(まつり)と呼ばれます。この日各地にいる神官の子孫が集まり祭りの準備に取りかかります。神輿(みこし)を組み立て山国川で禊(みそ)ぎをしいよいよ神事です。神官さんの祝詞(のりと)があがり八百年前初めて神様を迎えた場所まで神輿(みこし)を担ぐ馬場まわりを行います。
PAGE直会(なおらい)の料理には必ず大根二切れが付きます。これは黒田官兵衛に討たれた後お供(そなえ)は大根二切れでもよいから野仲一族が滅びても変わらずお祭りを続けるようにという先代からの厳しいお教えを守り伝えている大事なことでした。26軒の神官(じがん)の中では、「大根まつり」とも呼んでいます。
PAGE例大祭の二日目は、御神(ごじん)幸(こう)祭(さい)、城井地区を大きなきれいな傘鉾とともに神輿が廻ります。子どもたちが、神輿を担ぎ地区の消防団の人たちも一諸です。昔の神輿はとても大きくそして重く大変だったそうです。
PAGE神輿(みこし)は、城井地区を廻り当番の地区民総出のなか神楽が奉納されます。そして静かに城井八幡へ戻っていきます。
PAGE太田宮司さんがつとめる津民地区大野に伝わる「やんさまつり」を紹介します。野仲氏が治めていた時代は兵氏と農民が別れていない平和な時代でした。その当時よりの毎年十二月第一土曜日の夜五穀豊穣を願った祭りです。大野八幡は鶴ヶ岡八幡宮と称し下毛郡野仲郷つたみの荘(しょう)長岩城十八代の城主野中の能登(のと)の守(かみ)弘道が鎌倉より鶴ヶ岡八幡のお神様をお迎えしこの地の守護神として崇め(あがめ)ました。お祓いを受けた野仲の若侍三十三人が三升三合三勺の餅米を褌(ふんどし)一つでヤンサヤンサのかけ声も勇ましく6尺の樫の杵棒で餅を搗きます。お供えの鏡餅、そして厄除けとして参拝者に杵棒の先につけた餅を振る舞います。最後に神官、三十三人の若者、座元の人たちと食べます。この行事を伝えた野中氏も二十三代野中(のなか)鎮兼(しげかね)の時、天正16年(1588)四月八日中津城主黒田官兵衛孝高、長政父子に攻められ滅亡しましたが、この行事は村人により受け継がれています。
PAGE津民地区長岩扇山にある「長岩城跡(あと)」は平成23年10月1日(2011年10月1日)に県の指定文化財となりました。中津市の力添えにより城井八幡社の太田宮司さんや長岩城保存会の皆様方、永岩小学校の子どもたち、耶馬溪歴史観光案内人により記念行事が執り行われました。
PAGE近世になって「城井八幡社」は武士が開いた「社」ということで戦争に行く前に武運を念じ祈願をして出征をしていたといいます。無事に家族の元に帰れるよう願っていたのです。今では、境内で地区の人がゲートボールを楽しんでいます。「城井八幡社」はいつの時代も土地の人とともに生きてこられた気がします。なんだか自分たちのまわりにこんな不思議な大きな力が日本の歴史と一緒に動いた場所が合ったことを初めて知った一日でした。太田宮司さんありがとうございました。
平成25年三月作成
参考文献佐野佐吉著耶馬溪村誌
山崎利秋著耶馬溪文化叢(そう)書

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耶馬溪支所 耶馬溪地域振興課
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