戦争・悲しみと怒りの記憶『ほたる』

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公開日 2015年04月01日 00時00分

PAGE一九三一年(昭和六年)以降、日本は中国と戦争状態を繰り返していましたが、ヨーロッパでも、一九三九(昭和十四年)年九月、ドイツ軍がポーランドに侵攻したのをきっかけに、戦争が始まりました。その中で、日本が戦争に必要な石油を手に入れるために東南アジアへの進出を図り、アメリカやイギリスと対立しました。そして、アメリカが「石油の輸出」を停止する等の制裁を加えたため、一九四一年(昭和十六年)十二月八日、日本がハワイの真珠湾を奇襲攻撃(不意をねらって襲撃すること)し、太平洋戦争が始まりました。ヨーロッパでも、次々に戦線が拡大され、全世界が戦場になるという、歴史の上で最大の戦争に発展しました。この世界大戦は、二度目の世界戦争で、「第二次世界大戦」と言います。第二次世界大戦の中で、多くの兵士や一般の人々など、命を奪われた人々は、世界でおおよそ六千万人とも言われています。耶馬溪の山間(やまあい)に住む、私の、かけがえの無い、家族四人もこの戦争によって命を奪われてしまいました。紙芝居『ほたる』は、その悲しみと怒りの記憶(きおく)です。
PAGE開戦当時は、日本軍がアメリカ軍やイギリス軍を各地で破り、東南アジアのほぼ全域を占領しました。しかし、アメリカ軍の反撃が始まると、戦況は大きく変わり、苦しい戦いが続く事になりました。日本の本土にも激しい空襲がはじまりました。都市への空襲は特に激しく、工場や交通機関は破壊され、家を焼かれ、多くの人たちが亡くなっていきました。ここ耶馬溪も、戦争が進むにつれて、アメリカの大型爆撃機、「B二十九」の大編隊が北九州に向かって(爆撃のために)、上空を通過するようになりましたが、その時が過ぎると、また静かな山間の村に戻りました。
PAGE戦争が進むにつれて、食物や衣類を始め、日用品の殆どが国からの、配給制になり、暮らしは益々苦しくなってきました。私たちは、いつもお腹を空かしていました。耶馬溪にも『空襲警報』が出されるようになりました。「空襲警報」を知らせるサイレンが鳴ると、大人も子どもも「防空壕」や「家」「もの陰」に一目散に隠れましたが、「空襲」も都市のように激しいものではありませんでした。空襲警報が解除されると、子どもたちは、またどこからともなく集まって来て「腹がへったのう……」「なんか食べるもんはねえかのう…」と口々に言いながらも、つかの間の時間を楽しく遊びました。やがて深い悲しみに襲われる日が刻々と近付いていることなど、予想もしない夏の日のことでした。
PAGE一九四四年(昭和十九年)六月十五日、この日は朝からよく晴れて、真夏のように暑い日でした。私と二人の妹が、小学校から帰って来ると、母と祖母は家の前の田んぼで、麦刈りをしていました。夕方、父が勤務先の山口小学校(三光村)から帰ってきた時、「生徒の家で、きゅうりをもらったぞ…。」と言って、縁側に置いて仕事服に着替え、母と祖母のいる田んぼへ出かけて行きました。夕暮れになると、近所の子どもたちは、麦わらで編んだ「ほたる籠」を下げて、幸田川に集まりました。末の妹が、転んで膝を擦りむき、血が滲んで泣いたこと、遅い夕食のご馳走は、「きゅうり」の、酢の物で、とても美味しかったことを、今も覚えています。「さあ、寝ようか、くたびれたのう…。早う来いや、待つちょるよ!」と祖母の声、私もいつものように、祖母の布団にもぐり込んで、やがて深い眠りにおちていきました。
PAGE「苦しい!苦しい!」「おばあちゃん!」「おばあちゃん!」とどれだけ呼んだだろうか。なんでこんなに苦しいのだろか。一緒に寝ていた祖母を探してみようと思うのですが、身体は「むずん」とも動きません。大きな声を出すたびに、ホコリが口に入ってきて、とうとう声も出なくなりました。息苦しくて、このまま死ぬかもしれない、と思うと怖くなり、泣き続けるうちに、目の前を、ピカァ~と光ってはスウゥ~と消える無数の「ほたる」。そして、「ほぉ、ほぉ、ほたる来い、あっちの水は苦いぞ!こっちの水は甘いぞ!」と誰かの呼(よ)ぶ声が、あちこちから聞こえてくると、あんなにいっぱいいた「ほたる」が、私の前からだんだん遠ざかり消えてしまうのです。やがて、遠くへ行ってしまったはずのほたるが、小さな灯りを点しながら、どんどん帰ってきて、私の頭や顔にぶつかりました。「生きちょるぞ!」という声で、私は夢から覚めました。近所のおじさんに抱きかかえられていました。「あ、あ、よかったのう!生きちょった、生きちょった……」と言うおじさんたちの言葉が、私には、何のことかさっぱり解りませんでした。唯、夜空の月がかすんで見えていました。
PAGE「苦しい!苦しい!助けて……。」と今にも消えそうな祖母の声も叔母の声も夢のように聞いたのですが、姿はどこにもありませんでした。私は助け出された後、また気を失い、気がついた時は、もう夜明けでした。大勢の近所の人や、警防団(消防団)の人たちが救出にあたってくれていました。時間が経過する(流れる)中で、我が家の裏庭に爆弾が投下され、家は全壊、祖母も叔母も二人の妹も亡くなってしまったと、大人の人たちが話すのを聞きました。「北九州爆撃からの帰り路、いらなくなった爆弾を無神経に捨てたんじゃろう……。聞くところによると、山移の近くの山の中にも二発落としたらしいで……。焼夷弾ではなかったんで、火事にならなかったが、ひどいことをするもんじゃ」と話す近所の人たちの声を、私はぼんやりと聞いていました。それから毎日毎日、地域の大勢の人たちが、壊れた家の後片づけにきてくださいました。
PAGE大小七部屋もあった私の家は、見るも無惨に壊れ、救出された(助け出された)私たちは、隣の伯父の家にはこばれました。六月十六日の朝、伯父の家の座敷に並べられた四つの布団には、白い布がかけられていて、一つだけ、白い布の一部が赤く染まっていました。父母の姿はあるものの、妹や祖母、叔母の姿がないのに気づきました。白い布を掛けられているのは、妹たちに違いないと思うと、とても悲しくなり、布団の傍に近づくと、「ここに来ては、いかん!」と親戚の人たちに言われるので近付くこともできませんでした。ひっきりなしに、いろんな人たちがやってきて、父や、親戚の人たちに、挨拶をして帰ります。母は、狂人のようになりました。父が「しっかりせんか!」と叱っていましたが、泣くばかりで、近所のお医者さんが母の腕に注射をすると、静かになって眠りました。村の人たちが、四人を担架に乗せて、山の火葬場に連れて行きました。
PAGE亡くなった時妹は、小学校四年生と一年生、そして祖母は、六十五歳、叔母は二十六歳でした。爆撃の日から3ヶ月たち、下郷の里にも秋風が吹き始めました。私は夕暮れになると怖くて怖くて、どうしょうもなく、母にしがみついて泣きました。そして、私は毎晩のように夢を見ては、眼が覚めてまた泣きました。妹たちと、ほたるを採りに出かけた夢、「幸田川」で泳いだ夢、小さい頃、おねしょで布団を濡らして、おばあちゃんに、迷惑をかけた夢。ほんとうに沢山の夢をみました。一番いやな夢は、あの日壊れた家の中で、気を失いながらみた「ほたるが私の手を放れ、だんだん.遠くにいってしまう」夢でした。その時。私は、十一歳、小学校五年生でした。
PAGE近所のおじさん、おばさん、そして親戚の人たちが長い間、家の片づけや、家族を励ましに来てくださいました。私たちは、家のはずれあたった「蔵」を改造して住み、何とか生活ができるようになりました。しばらくたってから、ある日のこと、近所のおばさんが、こんな話を聞かせてくれました。あの爆撃を受けた日の夕方、お寺の下を流れる幸田川の傍(そば)を通りかかると、妹ふたりが、裸になって、水を浴びていたそうです。「あんたたち、こんな時間に、水なんか浴びちょると風邪をひいてしまうが、早よ上がって、家に帰らんと……。」と声をかけると、「はあい……」と答えて、すぐ上がって来たけれど、「唇が紫になっちょったんよ。」それから川から上がった二人の妹は、きゅうりを一本ずつ手にして、教円寺さんを訪れています。坊守さん(寺の奥さん)に、「これをお上がってください」と差し出すので、「幸屋の嬢ちゃんかね、ありがとう」といただきましたが、その時髪の毛がぬれていたので、どうしたんだろうと不思議に思いました。とおっしゃっておられたと…。」多分妹たちは、父がいただいて来た「きゅうり」を一本づつ持って出かけ、川で身体を清め、お寺さんに、お別れに行ったんじゃろう」と話して涙にくれました。
PAGE稲穂がようやく実を結び、秋が深まる頃には、母も少し元気をとり戻しましたが、私たち家族にまたもや苦悩がのしかかってきました。学校から帰った時、母の様子がいつもと違うので、「母ちゃんどげんかしたん?、風邪でもひいたん?」と聞くと母は、「どげえもせん、心配せんでもいい……。」と力無く答えました。次の日学校から帰って来た父は、私を呼び寄せ「そこに座れ!」と言うのです。「いいか、よく聞くんだ、父ちゃんはのう、兵隊にいくことになったんじゃ、お前が母ちゃんや家族を守っていかなきゃあ!な、たのんだぞ」と力を込めていいました。そして、間もなく、近所の人たちや、親戚の人たちに見送られ、旅立っていきました。母と私、幼い二人の弟が残されました。戦地に行ってからしばらくは、「今都城にいる」等と父からの便りが届きましたが、次第に音沙汰(連絡がなく、どうしているかもわからない)もなくなってしまいました。
PAGE戦況は日を追う毎に激しくなり、下郷の空にも、B二十九の飛行が激しくなりました。子どもたちもみんな外出する時は「防空ずきん」という頭を守るための、「ずきん」を肩に下げていました。登校中でも警戒警報が鳴ると、急いで「ずきん」を被り、もの陰に伏せて飛行機の通り過ぎるのを待ったり、近くに防空壕(爆弾を避けるためについくられた場所))があると、その中に走り込みました。学校で勉強する時間は殆どなくなってしまいました。いつも何かに追いかけられているような不安な毎日でしたが、防空壕に入ると、死なないでよかったと、「ほっと」しました。そして、子ども同志で、戦争の話をしたり、時には自分の夢を語り、互いに元気づけ合ったりしました「下郷小学校にも都会から疎開してきた子どもが何人かいて、防空壕にも一緒に入りました。戦争が激しくなると日増しに食べるものがなくなり、三度の食事にも事欠くようになりました。私は生まれつき、身体が小さくて、痩せており哀れな姿でした。時々、母方の伯父が玖珠郡の八幡村から、自転車に米や野菜を積んでやってきました。「おおい!みんな元気か!母ちゃんも大丈夫か!」という伯父の声を聞くと母も笑顔になりました。米も野菜も、たしなんで、ほんの少しずつ分け合って食べました。
PAGE昭和二十年、私は六年生になりました。五月七日、校庭にいた私たちは、何時もと違う爆音に驚いて空を見上げると、空中で火花が散り、爆音と共に煙が出ているのが見えました。八面山上空で、B二十九爆撃機と日本の戦闘機が衝突し、二機とも墜落したのです。日本の兵士にもアメリカの兵士にも大勢の犠牲者が出ていると情報が伝わってきました。翌日、この墜落事故の現場が見たいと、上級生(高等科)同級生合わせて七名で、八面山に出かけることにしました。母に「八面山に行きたい」と言うと、母はこれまで聞いたことのないような大きな声で「行ったらいかんよ!お前は何を考えておるんか!」と叱かりました。それでも、母には内緒で、耶馬溪線に乗って、出かける事にしました。母にみつかったら大変なことになると思う一面、私の家族の命を奪ったアメリカ兵の姿をひと目見たいという強い思いにかられました。山に着いてみると、竹槍のような棒を持った男の人たちが、兵士の遺体を取り囲んでいました。その余りにも凄まじい光景と悪臭に私たちは言葉を失い、一目散に走って山を下りました。帰りの汽車の中でも誰ひとり、口を利きませんでした。私はひどく後悔をしていました。白い布で覆われた米兵と、家族が重なってしまった時、怖さと哀れさで、私は「来るんじゃあなかった」と後悔し、身体がふるえてなりませんでした。下郷駅で汽車を降りてからもみんな無言で別れました。母にきっと、ひどく叱られると思っていましたが、唯わなわなと震えている私に、母は何も言いませんでした。私はその時「戦争はいやだ」「戦争は絶対だめだ!」と、心の中で、叫んでいたことを、今でもはっきりと思い出します。
PAGE悲しみの日から、早一年がたち、我が家の前を流れる幸田川にも、ほたるが生まれる季節がやってきました。ある晩の事ですが、母の姿が見あたりません。私は心配になって、母を捜しました。川に来てみると母は岸辺に佇んでいました。「かあちゃん、どげしたん!」と聞くと「ほら…」と母は掌(てのひら)を広げました。二匹のほたるが、淡い光を放していました。「こっちのほたるが、美保子、小さい方が、律子だよ」と言った母の身体が、震えているように私には見えました。母は、じっと空を見つめ、「あそこに飛んでいるのが、おばちゃんぼたるだね。隣にいるのが、おばちゃんかな?おばあちゃんは麦刈りでくたびれて、もう寝たかもしれんね」 「母ちゃん!みんな来年も来るじゃろうか?」と言うと母は、「きっと来るじゃろうね……。みんな生まれかわって来年も帰っておいで……。」泣きながらほたるを夕闇の中に放ちました。母と私は、しばらくの間、飛び立ったほたるを目で追い続けていました。
PAGE益々はげしくなった戦火の中で、日本の主な都市は、空襲で焼きつくされました。一九四五年(昭和二十年)沖縄戦が始まりました。国内で唯一民間の人たちを巻き込んでの地上戦でした。中学生や女学生もかりだされ、悲惨な戦いが繰り広げられて、多くの人たちが命を奪われました。八月六日、広島に、九日には長崎に、世界で初めての原始爆弾が投下され、広島では、約二十万人、長崎では十四万人の人々が犠牲になりました。
PAGE八月十五日、朝から晴れ渡たった、とても暑い日でした。近所の友だちと、隣の家で遊んでいると役場に勤めていた叔父が、ふうふう言いながら自転車を漕いで帰ってきました。「大変なことが起こった、みんなを呼んで来てくれ!」と言いました。私たち子どもは、何の事かわかりませんが、それぞれ家に親を呼びに行きました。母も小走りで隣に向かいました。近所の人たちが集まると、叔父は「日本は戦争に負けた!無条件降伏をした!戦争は終わった!」と身体を震わせて一気に言うと、崩れるようにしゃがみ込んで泣き出しました。集まった大人の人たちも、みんな泣いていました。やっと長く辛い戦争が終わったのです。大人は泣いていましたが、子ども心には、何かしら「ほっ」と安堵の気持ちが宿りました。終戦と共に、出征(戦地に行く)していた人々が帰ってきましたが、父からの便りは途絶えたままで、母は毎日仏壇に手を合わせ、父の無事を祈っていました。  秋風が時折頬をなぜるようになった九月のある夜、蔵の戸を激しく叩く音に目がさめました。母は私に「じっとしておりなさい!」と言うと、部屋の中に置いてあった鉄棒を握り、入り口に近付いて、じっと耳をすましていましたが、何か叫んで戸を開けると、そこにひげ面の、汚れてしまった服をまとった父の姿がありました。
PAGE父が復員し(戦地から帰って)私の家族五人が揃いました。父はやがて、元の山口小学校の教壇に立つようになりました。日本の軍国主義が引き起こした戦争は、巨大な悲劇をもたらし、こうして幕を閉じました。戦死した人々の数はおびただしく、私たちの知っている人たち多くも帰らぬ人となりました。あの戦争がなかったら、原子爆弾も投下されませんでした。不本意に(自分の望まないこと、気持ち)生涯を終えなければならなかった、全世界の人たちの尊い命が守られたでしょう。私の両親は、昭和五十四年相次いで亡くなりましたが、最愛の肉親四人を一夜にして亡くした悲しみを生涯心に抱き続けていたと思います。私は教員生活の中で「教え子を決して戦場に送るまい」この信念はいつまでも変わる事はありませんでした。そして「反戦・平和」を説きながら、長かった仕事に終止符を打ちました。今も世界のどこかで何らかの形で戦い、大切な命が失われています。 誰もが、「戦争は絶対しない!」と強い意志をもって、平和の社会の実現に向かって進み続けなければなりません。特にこれから社会を担い、国際社会の中で生きる若い人たちに、「恒久の世界平和の実現」この願いを託したいと思っております。 

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住所:〒871-0405 大分県中津市耶馬溪町大字柿坂138番地1
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