長谷寺~九州西国霊場第二番札所~

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公開日 2015年07月09日 00時00分

山号を大久山と呼ぶ。長谷寺縁起によれば、大久山の窟は孝元天皇の22年、はじめて神を祀った地である。天武天皇の甲辰(704)の秋、僧仁聞がこの岩窟に留錫していたある夜、白髪の神仙が枕もとに現われ「汝、此処に十一面観世音の像を彫刻し安置すれば、永く鎮護国家の道場となるであろう」といって立ち去ろうとした。仁聞は神仙の直衣の袖にすがって「あなたは、いかなるお方でしょうか」と尋ねたら、「われは白山権現である。この山に垂迹してそなたを長い間待っていた。そなたがわが思いに従うならば、私もまた永くこの地に留まり、法燈を守護しましょう」といって姿は見えなくなった。仁聞は夢から覚め、たいへん喜びすぐに霊木を求めて、一刀ごとに三礼し、坐像1尺余りの観世音菩薩を彫刻し、脇士として御丈約3尺の不動明王及び毘沙門天の立像を副え、この岩窟に安置した。

 元明天皇の和銅年間(708~714)に比古山(彦山)及び紀州熊野権現の神勅を蒙り、法蓮及び仁聞の西国33ヶ所観音の霊場を開くにあたり、第2番の札所に列せられ降盛をきわめた。しかし、寺運の盛衰は免れ得ず、順徳天皇(1210~1221)の頃には、本堂の屋根は漏り壁も落ち、仏像は雨露にさらされそうになったので、建保2年(1214)の夏、岩窟に沿い4間に3間の本堂を再建した。

 本尊の観世音菩薩の霊験は、殊のほかあらたかであったので、歴代国主の武運長久、家内安全のご祈念所であった。しかし、天正年中、野中兵庫守鎮兼、邪宗門のため諸堂ことごとくを焼いてしまった。しかし、不思議にも三体の仏像は岩窟の一隅に避難せられ難をのがれた。

 国主細川越中守忠利公の北の政所は、当山に帰衣殊のほか深く、嗣子を恵まれるよう本尊の観世音にご祈念されたら、示現のとおり本誓に違わず玉のような一男を授かった。そのお礼として元和5年(1619)4月吉日、金堂一宇を建立ご寄進された。細川氏転封後、小笠原氏も信仰浅からず、享保9年(1724)、当時の荒廃を憂えた奥州南部の舟越又右ヱ門は、時の住職善応と謀り、再興の由を領主に請願されたところ、さっそくお聞き届けなされ、若干の金穀を賜り、また領民へ寄付するようお達しをされたので、堂宇をはじめ石段までことごとく修理がととのった。領主はたいへん喜び、多くの田んぼや山林をご寄進された。その後、嘉永6年(1853)11月、庫裡一宇の再建があり、明治維新の廃藩に至るまで、堂々たる国主のご祈念所であったと記されている。(「三光村の史蹟を訪ねて」より)

 
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銅造観音菩薩立像ご開帳の様子(2013年)
 
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長谷寺
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大日如来
 

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